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宮崎神宮ブログ - 十年祭斎行にあたり

十年祭斎行にあたり

カテゴリ : 
全般
執筆 : 
office 2018/3/19 13:45

平成30年3月19日、雨。 

本日午前11時より神宮会館において、

宮崎神宮前宮司 黒岩龍彦大人命の十年祭を斎行致しました。

 

ご存知の方も多い事でしょうが、この節目に故人を偲びご功績を

お伝え致したく存じます。

戦後神道界の諸群像―黒岩龍彦

(大正十二年~平成二十年 八十四歳)

 

黒岩龍彦は大正十二年四月二十八日、宮崎県児湯郡新富町に出生。昭和十七年四月國學院大學予科に入学。同年十月には、神道思想家葦津珍彦と後の神宮少宮司幡掛正浩が開設した「葦牙寮」(目黒区大橋)に入寮してゐる。時恰も東条内閣専制下で、「戦時特別刑法」を巡る反対運動に駆り出されるなど、大東亜戦争真つ直中の寮生活が、如何に痛烈なものであつたかは想像するに難くない。龍彦は、「幡掛、葦津両先生が、その第一義の道を実践される現実の場であつた」と述懐し、幡掛は、「憑かれ物の時代」と回顧してゐる。ただ寮には福岡県神職子弟が多く(幡掛正次、葦津信行、阿曇武彦等)、葦津、幡掛の指導と、古い社家出身者との交流が、神道人の道を開き思想形成の根幹となつたことだけは確かだ。十八年九月に予科を修了し、十月に同大学学部道義倫理科に入学するも、十二月に学徒兵として西部第十七部隊に入隊、鹿児島で終戦を迎へる。

 

戦後は苦難の連続であつた。戦死した兄に替はり慣れない畑仕事に従事し、公立中学校では教鞭を執るも、肺結核を患ひ依願退職を余儀なくされた。長い療養生活を経て復帰し、三十三年三月には、葦津、幡掛の紹介により伊勢神宮奉賛会書記併せて季刊誌「伊勢春秋」の情報部主任となつた。ところが再発して遂に手術を受け、漸く死の病から解放されたのであつた。その時の病臥の杳き日々を、

血を喀きて痩せ臥す吾れとは知らぬ妻
手抱きし幼子の写真送りきぬ

と詠んでゐる。「おんぼろ蓄音機」と称された語り口とは裏腹に、折々に詠んだ歌風には凄みがある。生前交友のあつた関係者等の追悼文と、龍彦の短歌を纏めた『塒定むる』が刊行されてゐる。

 

昭和三十五年無試験検定により神職資格直階を取得、直ちに新富町の新田神社出仕を拝命してゐる。この時既に三十七歳であつて遅咲きと言はねばならない。そして翌三十六年には宮崎県神社庁雇、兼宮崎神宮出仕を拝命、四十四年には神社庁参事に任じられてゐる。その間もつとも腐心したのが、神宮大麻増体に向けた取組であつた。宮崎県内の頒布数は、昭和三十年代は三万体を多少上回る程度であつたが、神社庁役員人事を含め改革を施したやうで、頒布数は年々増加し、結果的には十二万体を超えるまでとなつた。龍彦は頒布の心構へについて、神道的人生観はあくまでも現実主義的な立場に立ち、問題の解決を彼岸や天国に求めないとしてゐる。神々から与へられ、祖先から与へられた使命を、現実の世界に開花せしめ、結実せしめる為に祭りを行ふとも言ふ。故に、その信仰の実績を目に見える形で示すべきとし、そこに神道的人生観があると説いたのである。当時、伊勢神宮に奉職してゐた幡掛は、「なけなしの身銭を切つて焼酎を求め、戸別に氏子総代を訪ねて大麻頒布の成績向上に努力してをる」と、有言実行してゐた時代の労苦を綴つてゐる。

 

一方、神社庁の経済的安定と宮崎神宮の結婚式の増加を期すべく、昭和四十六年に宮崎神宮境内地に「神宮会館」を建設したのも大きな功績と言へよう。会館経営は、常に結婚式場やホテルとの競争がありリスクも少なくないが、その危惧を払拭するかのやうに、神前婚儀ブームや高度経済成長と相俟つて軌道に乗つて行く。現在でも運営上の大きな収入源となつてゐる。また、宮崎県護国神社では、将来的な遺族減少を危惧し、「宮崎県戦没者等慰霊奉賛基金造成奉賛会」を組織し、神社の財政基盤の確立を図るなどの、英霊顕彰に努めたのである。経営手腕とは無縁の豪放磊落な印象を持つ人も多いが、宮崎神宮社務所の新築工事含め、堅実で緻密な一面も見せてゐる。

 

昭和五十一年より宮崎神宮権宮司と参事を兼ねての奉仕が続いたが、五十八年には宮崎神宮宮司、宮崎県護国神社宮司、宮崎県神社庁長に就任した。この間、『神武天皇論―宮崎神宮史』、『宮崎県護国神社と県民の奉賛』、『宮崎県神社誌』も刊行した。もとよりこれらの編集事業は龍彦の得意分野とも言へる。旧制妻中学校時代より文学青年として地元では知られ、肺結核で入退院を繰り返した時代には、病気をしたことを得したと思ふ程に読書したと言ふ。その一端は、著書『神武さま―大悲物憂きことなく―』や『一神道人の生涯』(後に『一神道人の肖像』に改題)等にも見られる。

 

それらの著書に底流するのは、総じて天皇国日本への信と忠である。とりわけ昭和天皇への思ひは深く、昭和といふ激動の時代を自らの人生と照らし合はせて生きた。「昭和天皇の崩御と共にぽつかりと穴があいたやうな寂しさを感じた」とも綴つてゐる。その穴を埋めるかのやうに、財団法人「昭和聖徳記念財団」の設立には意欲を示し、協力を惜しまなかつた。

 

ところで昭和から平成への御代替はりは、多くの神道人の危惧する状況であつた。昭和天皇の大喪の礼はじめ今上陛下の大嘗祭等が、伝統に則つて実施されるかとの問題でもあつた。師の葦津珍彦は、万一の事態になつたら神社を担保に入れてまでも無事に諸儀が行はれることを求めたといふ。その計画を約された時の、「怖いやうな張りつめた黒岩さんの表情が忘れられない」と、子息の葦津泰國は書き残してゐる。

 

平成七年より二期に亘り神社本庁常務理事を務め、斯界の発展興隆にも努めた。十五年には長老の称号を贈られてゐる。神明奉仕を通じて数多くの表彰を受けたが、生涯を通じて葦津、幡掛の門弟であることを誇りとした。二十年一月七日、享年八十四歳にて亡くなつた。この日は奇しくも、昭和天皇崩御より数へて二十年目の日であつた。
『戦後神道界の諸群像』(神社新報社 平成二十八年七月八日発刊所収)

 

 今後ともお見守りいただけれと思います。

 

また、十年祭にあわせてご子息である当宮黒岩権宮司が

エッセイ集「米良の桜」を出版されました。

明治維新百五十年

維新から大東亜戦争まで日本近代のあゆみをタテ糸に、

宮崎県や宮崎神宮にゆかりのある人物が織りなした歴史ドラマが描かれています。

 

文学的センスに

歴史的センスをブレンドした、

まるで司馬遼太郎ばりの内容

「本書の上梓を誰よりも最も慶賀してゐるのは、あの如何にも木訥とした顔をなほ一層くしやくしやにして喜びの涙を流してゐる父君・黒岩龍彦大人であらう。ー大人との不肖との縁を結んでくれた父も、きつと菊池の残党の末裔として『米良の桜』が咲いたことを、これも縁ぢや、と喜んでくれることだらう。」

(「序-『米良の桜』刊行に寄せて」より)

                            國學院大學教授 阪本是丸

 

是非お近くの書店でお買い求めいただければ幸甚に存じます。

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