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神武天皇祭

 「七十有六年の春三月甲午朔甲辰天皇橿原宮に崩りしましぬ。時年一百二十七歳。明年九月乙卯朔の丙寅、畝傍山の東北の陵に葬しまつる」(紀)とある当神宮の御祭神・神武天皇さまが御年百三十七歳(日本書紀では百二十七歳)にて崩御された日をお偲びする祭典です。祭典に先立ち天皇が葬られている奈良県橿原市の畝傍山東北陵を遙拝式も行われます。


流鏑馬の由緒

神事流鏑馬は鎌倉武士の装束に身を固めた騎馬武者たちが、馬を疾駆して大弓で的を射る古神事です。新緑の神苑にくり広げられる勇壮華麗な春のこの神事は、さながら一幅の絵を見るように、なつかしい国振りの歴史を再現しくれます。

 古く、日向の国は

 真蘇我よ、蘇我の子等は 馬ならば日向の駒よ

 太刀ならば呉の真刀 諾哉 蘇我の子等を

 大君の使はすらしき(日本書紀)

 と推古天皇の御代の豊明に謳われ、良駿の産地でありました。流鏑馬の発祥は詳らかではありませんが、神武天皇さま御東遷前の故地で、古来敬神尚武の気風篤く、古武道精神の精髄ともいうべき流鏑馬が盛大に催されたことは当然でありました。
 


神武さまの流鏑馬

 神武さまの流鏑馬は、昭和15年紀元2600年を慶祝して復興されましたが、中世の頃には、秋のみのりの豊穣に湧き立つ農民たちが、大勢集って「ヤクサミ」という競べ馬を催す神事に変化しておりました。天保年間に高木正朝という紀伊の国人が

著した「日本古義」に


 日向國宮崎神武天皇御祭禮の流鏑馬を見物せり。

 凡馬数千七八百騎に餘れり。二十騎或三十騎ばかり、

 馬の鼻を隻べて相図を聞くと等しく一度に駆出す。

 其の 疾き事矢の飛ぶが如く、雄々しき事又比ばむものなし。

 是吾が神武國のいさをしなるべし。

とあって、すでに草競馬に変化していたことがうかがわれますが、花の武道精神と土の匂いのする農耕の御祭とがめでたく結びついた、我が国ぶりの神事であるといわなければなりません。


流鏑馬の復興

 國學院大學、皇典講究所の庶務課長であった河合繁樹氏は、昭和11年12月19日付きで、宮崎神宮宮司として赴任されてきました。極めて精力的な方で、着任早々神社の書庫に入りびたって神社の古い文献や記録を読み、当神宮には古く流鏑馬が唯一、最大の神事として行われていたことを発見されたました。そして、来る皇紀2600年奉祝記念行事として、この由緒ある流鏑馬を復興することが、最もふさわしいと考えられました。


 そこで取りあえず宮崎神宮祭祀協賛会会長柿原政一郎氏に相談されて同意を得られました。しかし流鏑馬馬場の開設や、装具、人馬に要する経費、さらには皇紀2600年記念事業についての国家予算が橿原神宮に限られていて、宮崎神宮には予算措置が計上されていなかった事を理由に中々進展しませんでした。この時に際会して宮崎県に幸いしたことは、相川勝六氏が知事として赴任して来られたことでありました。同氏の奔走により、宮崎県の奉祝行事は極めて気宇壮大なものとなり、八紘の基柱の創建、宮崎神宮の徴古館の建設を含めた境内地の整備や拡張を行う計画が実現を見ることになりました。その結果、神苑の西の森に流鏑馬馬場が築設されることになりました。

 ところで宮崎神宮において復興すべき流鏑馬は、いかような形態のものでなければならないか。関係者の心痛したところでありました。

 河合宮司は、流鏑馬復興の機運のきざすや、逸早く有職古実の大家である帝室博物館嘱託、学芸委員関保之助翁に依頼して、その成案を求められました。そして出来上がった成案は次の如くでした。

「前略。ここに於いて今回再来すべき所の流鏑馬は、徳川再興以前の古式に稽へ、古書に徴し、古器に則り、之に加ふるに其の射技は早く之を実地に試み来りし徳川家の公式を採り、以て新に宮崎神宮式を制定して挙行せられんことを望む云々」

神宮に再興さるる流鏑馬の式は、徳川家の式による小笠原流でもなく、肥後に伝はる武田流でもない。全然別個のもので、言うなれば宮崎神宮式と称するものでありました。時代を遠く遡って流鏑馬が宮中衛府から武家の手に移った鎌倉時代及び室町時代に行われた正式の流鏑馬を再興するにつとめられたのでありました。


                      定

一、敬神と尚武は一にして二にあらす先づ心身を潔齋して只管推神の神武發揚に精進する事


二、活に居て亂を忘れす諸事質實簡素を旨として一意天業翼賛の至誠に燃え盡忠報國を期して弓馬の錬磨に努むる事


三、各々士道の實践に勵み廉恥禮節を尚ひ協心戮力して特に精進を怠らす同士の面目を毀傷せさる事


右之條々固く相守り違背有之間敷事


 紀元二千六百年庚八月

                                   神事流鏑馬道場 


神事流鏑馬日程

 4月2日 明日の本義にそなえて、精進潔斎を真摯に行います。


10:00 射手手組定めの儀 於神前(右写真)


流鏑馬に実際奉仕する射手、それに行事を総括指揮する総奉行、的を司る的奉行、馬場を管掌する馬場元役・馬場末役という様な所役の人々が諸役を定め、諸具の点検をする式です。 


10:30 流鏑馬行列(15:00迄)


射手、諸役以下着装行列を整えて宮崎神宮から大淀河畔(宮崎市鶴島)に設けた「川原祓斎場」へ向かう。


11:30 川原祓の儀  於大淀河畔(右写真)

流鏑馬行事に奉仕する人馬、装束調度一式のお祓いを大淀川河畔にて行います。とくに重要視されている式です。
川原祓終了後、小戸神社(宮崎市鶴島鎮座)、宮崎八幡宮(宮崎市宮田町鎮座)に正式参拝し帰宮します。   

4月3日


10:00  神武天皇祭 於本殿

「七十有六年の春三月甲午朔甲辰天皇橿原宮に崩りしましぬ。時年一百二十七歳。明年九月乙卯朔の丙寅、畝傍山の東北の陵に葬しまつる」(紀)とある当神宮の御祭神・神武天皇さまが崩御された日をお偲びする祭典です。祭典に先立ち天皇が葬られている奈良県橿原市の畝傍山東北陵を遙拝式も行われます。

12:30  饗膳の儀 於社務所貴賓室(右写真)


 射手、諸役が一同席につき、勝栗と神酒を拝戴する式であり、戦いに出陣する武士団の作法を思わせます。

13:00 奉幣の儀 於神前


射手が大幣をもって、自らを祓います。大幣を授かった射手は、幣殿階下に進み、大幣を左-右-左と大きく振りながら一歩一歩大股にて退きます。そして大幣を立て持ち、うやうやしく拝礼します。

14:00 馬場入りの儀(右写真)


諸役整列の上、馬場に入場します。

・馬場入り後、流鏑馬本儀(やぶさめほんぎ) 

先づ宮司「神事流鏑馬仕え奉れと宣る」と総奉行に告ぐれば、総奉行畏みて「おう」と答え、退いて馬場本役や射手一同に向い「神事流鏑馬始めませ」と下知します。一同これに応じて「おう」と答え本儀に入ります。


本儀


馬場本役、皆紅金丸の扇を一閃するや、一の射手左遷三度輪乗りして、馬を馬場に追い入ると見るまに、一の矢を放ちます。続いて二の矢、三の矢を射て馬場末より 的裏を通じて引き返します。的に当たると樅板でつくられた的は千々に砕けて、美しい弧をえがきます。ちなみにこの当り的は一年の豊穣と発展を祝福する縁起物として珍重されます。※馬場(130間 235m)


神録授与(右写真)


神録とは流鏑馬奉納を神が嘉賞さるる御しるしであります。射手一同騎馬で中央拝 所に進み、宮司より神録(紅絹の布)を受けます。射手は馬手の竹鞭の先でこれを受け、「かつぎ物」とて左背に担って、威風堂々と引き上げます。


・平騎射射技 本儀同様、平騎射流鏑馬を奉仕します。

17:00 垸飯振舞(おおばんぶるまい)

流鏑馬本儀終了すれば、装束解き、関係者一同に吉例の垸飯振舞があります。垸飯とは、古来神武さまの「ヤクサミ」の勝祝いに振舞われた小豆の赤飯のことで、持ち帰って家族にも頒って食べ、夏病みせずと言われます。



流鏑馬当り的


当日に限り、1年前の当り的を縁起物として授与致します。


(初穂料1,000円)


※数に限りがあります。


※通常の授与所ではなく、流鏑馬馬場にて授与致します。

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