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例祭(れいさい)

神職参進(10月26日例祭) 神社には特に重大なお祭が三つあります。それは祈年祭(きねんさい)、新嘗祭(にいなめさい)、例祭です。祈年祭(2月17日)、新嘗祭(11月23日)は五穀豊穣、諸産業等の発展を祈り、感謝申し上げる祭ですが、特に新嘗祭は今日も「勤労感謝の日」として祭日のなごりを留めています。(右写真:例祭参進)


 


例祭につきましては、各神社の由緒によって選び定めてます。宮崎神宮の例祭は、ご祭神神武天皇が「八紘一宇の皇謨(はっこういちうのこうぼ)」を樹て給いて、日向の國を御進発された日を、現在の暦にあてはめると10月27日となり、その前日(10月26日)と定められたと伝えられています。そして御神幸祭(神武さま)は、御東遷の御聖業を偲び奉って斎行されます。       (上写真:浦安の舞)


御神幸祭(神武さま)

 当神宮の「御神幸祭」は、「神武さま」と呼ばれ、秋の宮崎を彩る県下最大の大祭として、県民の多くに親しまされています。


 「神武さま」とは本来は宮崎神宮の御祭神・神武天皇(神日本磐余彦天皇)を指す物ですが、いつの頃から日向人の誇りや想いが親しみとなって、神武天皇のご偉業を称え、五穀豊穣を祝う、この御神幸祭自体を「神武さま」と称するようになりました。


初期の神武さま 

 このお祭りがいつ頃始まったかは資料・記録も散逸して定かではありません。ただ、天明4年(1785年)の吉田家への「調書草稿」(写)には、お祭りの事項に「神輿社内渡御、大宮司神主祠官等供奉仕、神樂酒神供獻備仕候」とあり、また、明治9年(1876年)から残されている宮崎神宮日誌をひもといて見ても、神輿渡御が斎行されていたことがわかります。今ほど華やいではいませんが、神様のお御霊を神輿に棒持し、氏子区域を練り歩いて御神慮を慰め奉っていたのでしょう。五穀豊穣を願う心情は、今も昔も変わりません。

明治13年1月4日には宮崎市中村町民より県に対して毎年旧暦の3月15日より4月9日までの25日間、御霊を奉じて回りたいという「渡御の儀の願い」が出され、それが許可されたという記録もあります。御駐輦 (お神輿がしばらく一定の場所に滞在すること)が25日間という長さは今日では考えられない日数ですが、中村町を中心とする近在の人たちが大勢お参りしたであろう賑々しいお祭りの様子が目
に浮かぶようです


 宮崎神宮の境内拡張と神武さま

  隊列を組む今の形式が固まったのは、明治42年頃からのようです。


 それに先立つこと明治31年に「神武天皇御降誕大祭会」が組織され、宮崎神宮を社格にみあった境内にしようという声が起こりました。その中心となったのが、二条基弘公爵、島津忠亮伯爵、高木兼寛男爵などでした。皇室からの御下賜金も賜り、広く神武天皇を申し上げる全国民の貴重な募財によって、明治40年には社殿の改新築、境内地の拡張が進められ、面目を施すこととなりました。このような流れが神武さまへの愛着と誇りを更に駆り立て、地元民の意識の昂揚を促し、御神幸祭の規模拡大へとつながっていったものと思います。 


大正、昭和初期の神武さま 

 この頃の「神武さま」の日程は4日間(現在は2日間)でした。つまり26日・例祭、27日・御旅所(瀬頭)御駐輦、28日・御旅所(中村)御駐輦、29日・御還幸で、昭和18年(大正元年、昭和2年は明治天皇、大正天皇崩御のため中止)まで続けられたことが当時の新聞記事などで確認できます。

一方、神賑行事の1つとして大競馬や籤引きも行われていたようです。「此日神符の抽籤あり」という「宮崎新聞」の記事(大正12年10月30日)があり、明治43年に「奉納御神賑規定」という規約もできて、余興奉納者には神馬1頭がクジ引きで贈られるなど人気を博したようです。今では到底考えられませんが、戦争の足音がひたひたと差し迫る、所謂「国家神道」時代の統制されたイメージとは逆行する、如何にも和やかで旺盛なお祭の1コマが感じられます。

しかし、祭典の供奉者は一切禁煙、老齢でも杖をつくことは許されなかったようです。明治43年には「神幸に付宮崎地方居住心得」という、おふれも当局からだされ、禁酒禁煙、2階から行列を眺めたり、鉢巻きや頬被りをしている者まで厳しく取締りされました。 神武さまは、一定の緊張感と弛緩の織り成す、人間味溢れる祭典として時に粛々と時に賑々しく斎行されて来たのです。



戦前・戦中の神武さま 

 皇紀2600年となった昭和15年は、神武天皇の御即位の節目を奉祝する全国的な気運の中、盛大に斎行されました。翌年も、このような昂揚した情勢を反映して、祭祀奉賛会総裁に長船克己県知事、会長には青木善祐宮崎市長が就任するなど、宮崎を挙げて斎行されました。




愈々時局も緊迫を増した昭和18年に入ると、「決戦下意義深く 宮崎神宮例大祭」(「日向日日新聞)10月26日付)の記事なども見られるように、時局は只ならぬ局面を迎えることとなりました。

戦時下なるが故に、全国の神社は日本国精神の高揚と国威発揚の一翼を必然的に担わざるを得なくなりましたが、御神幸祭にも遺族会、在郷軍人会、ワシントン入城部隊などが新に加わり、軍事色が反映することとなりました。

そして昭和19年にはそれまで3日間で斎行されていた渡御は1日間に短縮され、供奉員も非常時に備えて小範囲に留められることとなりました。

昭和20年3月に宮崎市が初空襲を受け、8月11日、12日の空襲によって全市焼け野原となって終戦を迎えるなりました。この年の神武さまは祭典のみの斎行となり、御神幸祭は中止となっています。
 


終戦後の神武さま 

 昭和21年は進駐軍の長官なども参列し、同26年迄、占領下の御神幸祭は厳かに斎行されました。

昭和27年4月28日、日本はサンフランシスコ条約に調印して独立を回復しました。例祭には田中長茂知事、有馬美利市長も参列し玉串奉奠、また御神幸祭にも供奉されるなど、まれに見る盛大な御神幸祭となりました。人出は戦後最高となり出し物も60を超えるなど、独立回復に沸く県民意識を反映したお祭りとなりました。

しかし占領後は御神幸祭の経費、御旅所選定、日程等の新たな問題を抱えることとなりました。

特に経費の問題は占領軍(GHQ)の神道の弱体化を狙った「神道指令」の弊害や、新に発布された日本国憲法の「政教分離」条項などにより、公費をもって充てていた御神幸祭経費の一部が負担しにくい状況となりました。

幸にして宮崎県では、そのような誤解が最低限に抑えられて、昭和25年より宮崎商工会議所を主体とする「宮崎神宮御神幸祭奉賛会」が組織され、県民あげてこのお祭りが支えられています。

 一方、御旅所の問題は、中村、瀬頭が1年おきと、昭和40年より変更され、日程は、昭和46年より例祭日10月26日、御神幸祭は例祭後の土日となりました。神賑行事は、流鏑馬武者行列(昭和15年)やミスシャンシャン馬(昭和24年)に加えて、「ひょっとこ踊り」「日向木剣踊り」などの県内各地の有名舞踊なども加わり、年々賑やかになっています。
 


(上写真:ミスシャンシャン馬)


今後の課題

 このように御神幸祭は、五穀豊穣を祝う宮崎県民あげての熱意に支えられながら、時代の変遷と共に発展してきました。その始まりは近隣を回る神輿渡御であったものが、地元民の熱意が当局を動かし、お祭りの規模や神賑行事数を増やして、今日のお祭りを形成していったことが理解されます。


御神幸祭の規模は大きく、それを維持していくためには今後とも様々な困難な状況を迎えることでしょう。神社のお祭りは、奉仕の精神や敬神崇祖の上に成り立っています。御神幸祭が今後とも宮崎県民の熱意によって支えられるよう、祭儀の本質を護持しながら、情熱を持って共に支えていく覚悟が必要だと思います。


  


先導獅子                 稚児行列

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